大宮から小山間

さいたま市街から望む日光連山
東大宮-蓮田間(2008年6月)
利根川越しの日光連山。中央の円錐形の山が主峰・男体山大宮駅を出ると下り線は北西に向かう高崎線の線路を跨いで右にカーブし北北東に進路をとり、併走する東武野田線を東に分けると土呂駅に着く。土呂駅北方の低地には東大宮操車場があり、大宮駅から併走している回送線(単線)がここまで伸びている。土呂-古河間は、関東山地中北部、三国山脈南麓、そして足尾山地への降雨が東京湾(一部は犬吠崎の太平洋)に注ぐ流路帯を横断していく。車窓には沿線の水辺の風景と遠く北西に日光連山の姿を臨みながら進む。当線区間が日本鉄道第二区線として開通した1885年(明治18年)7月より8年後の1893年明治26年)8月20日、日本を訪問していた当時のオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント候は当線を利用して日光を訪問しており、その滞在記の中で上野から宇都宮までの沿線風景を『みごとに手入れがなされた田園』と賞賛している[4]。まず、土呂駅を出ると見沼代用水西縁を越え芝川を渡り、東大宮操車場とその一端にJR東日本の訓練所を見ながら台上に上り左にカーブすると東大宮駅に着く。

東大宮駅を出ると国道16号の高架橋をくぐり見沼代用水東縁および綾瀬川を渡る。両水路の河岸に連なる田畑を越えて再び市街地に入ると蓮田駅である。蓮田駅を出るとまもなく元荒川の橋梁を渡る。江戸時代以前は元荒川が荒川の本流であったが、利根川東遷事業と呼ばれる河川工事の結果、荒川は入間川に合流して隅田川(住田川)となる現在の流れに瀬替えされ、この川は元荒川となった。元荒川沿いの低地から台上に上がり新興住宅街の中を走って積水化学武蔵工場、東光電気埼玉事業所の東側を通りマンション群が見えて来ると白岡駅に着く。白岡は近年の人口増が目覚しく宅地開発が進められている。白岡駅を出て隼人堀川を越え東北自動車道の高架をくぐり姫宮落川を越すと新白岡駅で、この区間も近年の宅地開発が目覚しい。新白岡駅を過ぎ、田畑や果樹園を見ながら備前堀川、備前前堀川を越えて市街地に入り西から東北新幹線の高架、東から東武伊勢崎線の線路が近づくと久喜駅に着く。久喜付近からは車窓東側に筑波山が見えてくる。

久喜を出て間もなく青毛堀川を越したところで東武伊勢崎線宇都宮線を跨ぎ西に向かう。田園地帯に入り間もなく古利根川の源流部にあたる葛西用水を渡って東鷲宮駅に着く。この駅は1981年(昭和56年)に貨物駅として開業、その後旅客駅となったが間もなく貨物扱いは廃止され旅客扱いのみとなった。こうした経緯から配線が変則的になっており、下りホームは地上に、上りホームは高架上に設置されている。駅南東部には新幹線の保線基地がある。駅東口は貨物駅を再開発した集合住宅街が広がり、その北側の戸建て住宅街も含め一大団地となっている。東鷲宮駅を出ると田園地帯を走り中川を渡り、築堤上に敷かれた東武日光線の線路が宇都宮線をまたぐと住宅地となり、ほどなく栗橋駅に着く。栗橋は江戸時代には日光街道栗橋宿の宿場町、利根川渡しがある交通の要衝として賑わった。栗橋駅では東武日光線直通特急が客扱いホームの無い連絡線を通り東武日光線に入る。栗橋駅を出ると宅地の間を右カーブを描きながら高度をかせいで築堤を登り、日本国内最大級の河川で坂東太郎の異名でも知られる利根川を渡って茨城県に入る。

この付近になると車窓北側の日光連山の山並みが鮮明となる。利根川は江戸時代中期以降、この地を経て鬼怒川と合流し銚子にて太平洋に注ぐ川となったが、それ以前は古利根川を経て東京湾に注いでおり、この付近の利根川は同じく東京湾に注ぐ渡良瀬川(太日川)の流路であった。1893年明治26年)のフランツ・フェルディナントの日本滞在記によると、利根川畔から日光までの日本鉄道沿線には杉並木が続いていたと記しており、並行して走る当時の日光街道(現国道4号)には未だ並木道が保たれていたことが分かる[4]。利根川の橋梁から続く築堤から続く70km/hの速度制限のある急カーブをゆっくり進み、日光街道中田宿付近を通って古河市大堤(元総和町)の距離の長い林に続く。日本鉄道第二区線として開業した時には利根川鉄橋が開通しておらず、この付近に中田仮駅が置かれ栗橋駅-中田仮駅間の利根川には渡し船が就航していた。利根川架橋とともに廃止されたが、その後再びこの近隣地には中田信号所が置かれ近年まで運用されていた。列車は林間にトモヱ乳業を見ながら直線区間を走り、高架に上ると2面4線の古河駅に着く。古河は宇都宮線唯一の茨城県内の駅であり、江戸時代には古河城の城下町また日光街道古河宿の宿場町として賑わい、また渡良瀬川の渡し場があった場所でもあり当時の交通の要衝であった。また室町時代には古河公方が座した土地としても知られ、その遺構は古河総合公園として整備されている。

古河駅を出て再び70km/hの速度制限のあるカーブを走る。この古河市内の2箇所の急カーブ地点では、車窓から15両編成の前後の車両が見える。古河の市街地を出ると栃木県に入り、野木工業団地の工場群を線路の左右に見ながら市街地に入ると野木駅に着く。野木は平安時代末期に源頼朝に抗して旗揚げした常陸国の豪族志太義広の下野国侵攻に対し頼朝方小山朝政等が陣を置いた野木宮の鎮座地で、当線の古河-野木間の北西部が野木宮合戦の古戦場である。野木駅から間々田駅、さらに小山駅にかけては栃木県南部の田園地帯で線形がほぼ直線でありその只中を疾走する。この区間は西方に谷中湖や渡良瀬遊水地の低湿地が立地し渡良瀬川、巴波川、思川の三河川の合流地点となっていることもあって、季節によっては濃霧が発生しやすい区間でもある。間々田駅にはかつて乙女河岸からの乙女人車軌道が連絡していたが、水運から鉄道運輸への転換により廃止された。間々田駅を出て宅地と田畑の間を行くと東北新幹線が東側から接近し、しばらく住宅地の中を並走すると水戸線が東から合流して小山駅に着く。

小山市は栃木県第2の都市であり、古くは俵藤太の別称で名高い藤原北家魚名流藤原秀郷の後裔を称する小山氏の居城・祇園城の元で栄え、江戸期には日光街道の宿場町となった。近年では源頼朝の乳母寒河尼を娶った小山政光の故地、また徳川家康、秀忠父子が関ヶ原合戦を前に小山評定を行った舞台としての町おこしが展開されている。