歴史を調べてみようじゃないか

宇都宮は、蝦夷平定のためこの地に足を踏み入れた豊城入彦命が開祖といわれており、当時「池辺郷」といったこの地に命を神として祀った宇都宮二荒山神社門前町として、また二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家道兼流・宇都宮氏の直轄地として栄えた。

「宇都宮」という都市名と、嫡流「宇都宮氏」の名称は、延喜式神名帳にある下野国唯一の一宮名神大社である「二荒山神社」の別号「宇津宮大明神」に由来するというのが一般的だが、他にも「現の宮」、「遷しの宮」、「討つの宮」など諸説がある。江戸期の森幸安の「下野州河内郡宇都宮地図」によると、「宇」とは「宇宙」つまり「太廣」の意で、又「卯」と同じ「東」の意、「都」は「京」と同訓、「宮」は「宮殿」の意味であり、即ち宇都宮とは古くから関東の都である、とある。宇都宮二荒山神社はその武徳が尊ばれ、かつてこの地を訪れた田原藤太藤原秀郷武家源氏の祖である源頼義八幡太郎源義家父子、源頼朝徳川家康等の名将らも戦勝祈願し、土地・金品等が寄進されたと言われる。

律令制度が整備されてからは、道路としての東山道鎌倉時代には鎌倉街道の中道が通っていた。田原街道の田川橋梁は古来鎌倉橋とよばれてきた。

その後、1598年に宇都宮に入封された蒲生秀行が日野町や紺屋町を造成し、宇都宮氏の居館は近世宇都宮城へと継承された。さらに小山藩3万石から加増を受け15万5千石で宇都宮藩に入封された徳川家康の腹心である本多正純が城下町を含めた宇都宮城改築の大普請を行い、城下町・宇都宮の礎を築いた。また、江戸時代には日光街道奥州街道が通る宿場町・宇都宮宿としても繁栄した。

江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で入り、幕末まで続いた。宇都宮新石町出身の蒲生君平天皇家陵墓に関する調査研究結果を山陵志にまとめて幕府・朝廷より評価され、その功績で宇都宮藩は天皇陵墓修復工事を任され、当時の難局を回避した。

明治維新では宇都宮城周辺が戊辰戦争の戦場となり、また日露戦争後は軍備拡大により第14師団司令部が置かれ、太平洋戦争が終わるまで軍都と呼ばれ軍需産業も進出したが、1945年7月12日の宇都宮空襲では600名を超える市民が死亡し、主要な都市構造物が焼失した。

歴史的構造物は時代が生まれ変わるごとに破壊と再生の道を辿ってきたが、宇都宮二荒山神社を礎として、様々な文化を受け入れる温故知新の社会構造は、脈々と現代に受け継がれている。

平安時代から室町時代まで
宇都宮二荒山神社門前町であり、二荒山神社神職者として赴任した藤原道兼流で嫡流宇都宮氏の居館が置かれた。日本三代実録貞観11年2月28日の記述には「二荒神加正二位」とあり、宇都宮二荒山神社は地方社としては最高位の格式が与されていた。

また吾妻鏡の文治5年7月25日の記述には奥州征伐に向かった源頼朝が宇都宮に宿し宇都宮社に戦勝の願を立て奉幣したとあり、宇都宮二荒山神社が当時の武門から厚い崇敬を受けていたことが推察される。

宇都宮二荒山神社神職者の地位にあったとされる宇都宮氏は、この地に在る間も京都との交流を続け、この地に中央文化の息吹を吹き込み続け、鎌倉時代には宇都宮頼綱が宇都宮歌壇を築いて小倉百人一首の成り立ちに関わるなど、文化教養の養生において名跡を残した。また、源頼朝をして「東国一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱、元寇の際に討伐軍十万の総大将として九州へ赴いた宇都宮貞綱元弘の乱楠木正成と互角に渡り合った宇都宮公綱など、宇都宮氏は武門としても歴史にその名を残している。

宇都宮氏の名声の影には、始祖藤原宗円以来の宇都宮氏の郎党「紀清両党」の力があった。宇都宮貞綱が正和元年母の十三回忌の供養の折に鋳造し、菩提寺である東勝寺に奉納した鉄製塔婆は、東勝寺廃寺に伴い芳賀高継創建の清巌寺で保存され、現存する日本最古かつ最大の鉄製塔婆として国の重要文化財に指定されている。

宇都宮氏は京との結びつきを保ちつつ鎌倉時代には鎌倉幕府評定衆引付衆として、また室町時代には室町幕府足利尊氏の意向によって下野国守護職等を兼務し中央政府を支えるとともに、鎌倉府から関東八屋形に列せられ、鎌倉府、関東管領とともに関東の支配体制の一翼を担い、主に毛野川流域一体の治安維持に務めた。毛野川下流にあたる下総国常陸国を治めた常陸国司の小田氏も宇都宮氏の庶流である。

室町時代後期になると後北条氏が小田原から南関東に台頭し、その勢力は小山にまで迫り、宇都宮氏は常陸国守護大名の佐竹氏らとともにこれを牽制した。宇都宮尚綱は那須高資と戦って敗れ、壬生綱房が幼少の宇都宮広綱から宇都宮城を奪取したが、忠臣芳賀高定の働きにより広綱は宇都宮城を奪還した。宇都宮周辺の城郭の様相が当時の度重なる攻防の歴史を窺わせる。