戦国時代

戦国時代、国司・宇都宮氏は擡頭する武士団を牽制して関東一帯の治安維持に寄与し、結果的に戦国大名と評される勢力を持っていた。将軍家足利氏の勢力が弱まり小田原の後北条氏が台頭して来ると、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏とともに後北条氏を牽制する一大勢力となった。中央政府から派遣された豊臣秀吉が小田原を攻めた際にはこれに応じ北条氏を破った。その後秀吉を小田原城から宇都宮城に迎え、秀吉は宇都宮の地で東北・関東の支配構造を決定した(宇都宮仕置)。宇都宮国綱は秀吉から羽柴姓を授かるなど宇都宮家と秀吉の関係は良好で、朝鮮攻めの際にも国綱は秀吉に追従した。しかし1597年、太閤検地の際に秀吉の姉婿であった浅野長政により石高詐称の嫌疑をかけられ改易された。背景には、旧来の勢力を一掃し、新たに功績を成した者に褒美として与える領地を確保する方針があったとされる。

宇都宮氏の後に入封されたのは改易に関わった浅野長政であったが、その後は蒲生氏や奥平氏などが入れ替わり支配した。

▼江戸時代
江戸時代になると徳川家康の廟所となった日光へ向かう日光街道と奥州白河へ向かう奥州街道が整備され、二つの街道の分岐点(追分)となる宇都宮宿の宿場町ともなった。

江戸時代初期の1622年には、徳川家康の腹心であった本多正純が宇都宮藩15万5千石で入城して城下町を含め中世宇都宮城を大改築し、周囲14km、高い土塁(一部石垣)と濠、土塁上には8つの櫓を備える近世平城(輪郭梯郭複合式平城)の縄張りとし、関東七大名城と呼ばれるほどの大城郭へと生まれ変わり、現在の市街地の基本構造を築いた。しかし正純はその後宇都宮城無断改修を咎められて(宇都宮城釣天井事件は架空の事件)改易され、その後は藩主が奥平氏松平氏や戸田氏、本多氏、阿部氏など目まぐるしく交代した。

この間も、大名の参勤交代や日光東照宮の造営などによる往来も多く、重要拠点として「小江戸」と呼ばれる程に盛えた。

▼幕末
江戸時代後期は戸田氏が入封し幕末まで宇都宮を治めた。新石町に生まれた蒲生君平は山陵修復を志して天皇陵を調査研究し、山陵志を執筆した。1856年には宇都宮藩藩主・戸田忠恕が山陵奉行に任ぜられ、歴代天皇の陵墓修復の任に当たった。君平はその後明治天皇より功績を讃えられ、その命により花房三丁目に勅旌碑が建てられ、また塙田の地に蒲生神社として祀られることとなった。

1868年の戊辰戦争の折には、藩主・忠恕は新政府方に就くが、大鳥圭介土方歳三ら率いる旧幕府軍桑名藩隊、新選組、伝習隊など)の侵攻に退散を余儀なくされた。宇都宮城に入った旧幕府軍と巻き返した新政府軍(長州藩薩摩藩大垣藩鳥取藩、土佐藩などの各隊)は、宇都宮市六道の辻宇都宮城二荒山神社付近で激戦を繰り広げ、物量に長じた新政府軍は新田町の延命院と桂林寺に砲台を並べ、旧幕府軍が陣取る宇都宮城や明神山(二荒山)、八幡山に砲弾を浴びせ、優勢となった新政府軍が宇都宮の地を旧幕府軍より奪還、旧幕府軍は明神山から日光方面に向け退却した。この折の戦火で、城下町を含む宇都宮城下の主たる建造物が焼失してしまった(宇都宮城の戦い)。この宇都宮戦争における戦没者を弔うために、市内のいたる寺院に慰霊碑が建立された。

明治維新から第二次大戦まで
1868年(慶応4)6月:古河にあった下総野鎮撫府が宇都宮に移動される。また、真岡天領が真岡県となるとともに、初代真岡県知事鍋島道太郎陣屋が一時宇都宮に置かれる。
1869年(明治2)6月:版籍奉還により宇都宮藩藩主戸田忠友が初代宇都宮藩知事に就任する。
1871年(明治4)8月29日(旧暦7月14日):廃藩置県により宇都宮藩が廃止され、宇都宮県が設置される。宇都宮県庁舎が宇都宮城内に置かれる。同年、日本陸軍東京鎮台第四分営第七番大隊が宇都宮城跡の宇都宮県庁舎に入営し、このため宇都宮県庁は城外に移転することとなり一時西原安養寺に置かれた。
1871年(明治4)12月25日(旧暦11月14日):府県再編により下野国北半部を管轄する宇都宮県が改めて設置されて、引き続き県庁が置かれる。県庁舎は梅が丘
1873年(明治6)6月:宇都宮県が廃止され、栃木県へ併合される。
1874年(明治7):日本陸軍が改組となり、宇都宮には東京鎮台歩兵第2連隊の連隊本部が設置され、従前の東京鎮台第四分営第七番大隊は同歩兵第2連隊第2大隊に改組となり、東京鎮台第1師団隷下となる。
1876年(明治9)6月:明治天皇が日光御行幸の際に宇都宮城で陸軍練兵を天覧する。現在の馬場通り2丁目にあった向明館が御在所となり宇都宮二荒山神社にも参詣。
1878年(明治11):郡区町村編制法が施行。
1880年(明治13)11月:陸軍東京鎮台第1師団の行軍演習が行われる。
1881年(明治14)7月:陸軍東京鎮台第1師団の大軍事演習が行われる。
1883年(明治16)10月:三島通庸が栃木県令となり、現在も宇都宮市中心市街地を東西に貫く大通りの開通工事を行う。
1884年(明治17)1月:県庁が栃木から宇都宮に移転。同年6月、東京鎮台歩兵第2連隊本部が佐倉に移動となる。
1885年(明治18)2月24日:内務省告示第6号にて、東京市日本橋)から函館港までの区間国道6号に制定される。市内経路は、雀宮から不動前、材木町、伝馬町、日野町、上河原、白沢街道を通って白沢に至る区間
1885年(明治18)4月:栃木第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)が県庁の宇都宮移転に伴い塙田地内に移転。
1885年(明治18)7月:日本鉄道大宮駅 - 宇都宮駅間が開通し、宇都宮駅で日本初の駅弁が販売される。
1889年(明治22)4月:町制施行。宇都宮町。町域は現在の本庁管内。同年末の居住人口は約3万7百人で、当時の関東地方の市町村内では第3位、全国では第28位であった[4]。
1890年(明治23)8月:日本鉄道宇都宮駅 - 今市駅間が開通。
1892年(明治25)10月:明治天皇が御行幸し市内向明館が御在所となる。天皇天覧の下、宇都宮平出原で第1回陸軍特別大演習が行われ、陸軍東京第1師団、同仙台第2師団、および近衛師団が参加。総勢3万人による大日本帝国初の大軍事演習となる。これ以降、御行幸(御幸)地の平出原は御幸が原と呼ばれるようになる。
1893年(明治26)7月:栃木第一中学校、河内郡姿川村(現在の宇都宮市滝の原)に新築移転。
1896年(明治29)4月1日:市制施行。宇都宮市。人口約3万5千2百人、戸数約7千戸。市域は現在の本庁管内。
1896年(明治29)10月17日:宇都宮旧城内広場において、旧制中学野球部同士の全国初の試合とされる旧制宇都宮中学(現・宇高)対旧制水戸中学(現・水戸一高)の試合が開催される。
1899年(明治32)6月:宇都宮電灯会社が、町内に電力供給を開始する。
1902年(明治35)8月:早稲田大学野球部が宇都宮にて第一回夏季練習を行う[5]。
1906年(明治39):八幡山に塩田園が開園。
1906年(明治39)12月:市内に電話が開通。
1908年(明治41)11月:陸軍第十四師団が移駐、師団本部が河内郡国本村戸祭に置かれる(現・国立栃木病院)。
1909年(明治42)10月:日本鉄道が国有化され、上野駅 - 青森駅間の路線名称を東北線、同じく宇都宮駅 - 日光駅間を日光線とする。
1911年(明治44)2月:市章制定。
1911年(明治44)3月4日:内務省告示第14号にて、東京市日本橋)から第十四師団(国本村)までの区間(現在の清住町通りと桜通り北側)が国道60号に制定される。
1912年(明治45)4月:市庁舎が旭町に落成。
1915年(大正4):今市浄水場、第6号接合井、戸祭配水場配水池が竣工。
1916年(大正5)3月:上水道の給水が開始される。
1920年(大正9)4月1日:内務省告示第28号にて、市内を通る国道6号国道4号、国道60号は国道29号に改号される。
1922年(大正11)10月:宇都宮高等農林学校(現宇都宮大学農学部)創設。
1927年(昭和2)4月1日:塩田園を市が買収、拡張整備した八幡山公園が開園。
1931年(昭和6)8月:東武鉄道宇都宮線開通。
1934年(昭和9)1月1日:河内郡姿川村鶴田の一部を編入
1936年(昭和11)3月:県庁舎が火災で焼失。
1938年(昭和13)10月:新県庁舎落成。
1939年(昭和14)4月1日:河内郡城山村大字駒生の一部を編入
1940年(昭和15)8月:第十四師団が満州に移駐、留守第十四師団を基幹とする第五十一師団が新設される。
1942年(昭和17)7月1日:河内郡平石村大字峰を編入
1944年(昭和19)1月:中島飛行機宇都宮製作所が操業開始。
1945年(昭和20)1月20日:留守第五十一師団司令部が独立し、宇都宮師管区司令部が開設される。
1945年(昭和20)6月:宇都宮師管区司令部が八幡山地下壕に移設される。
1945年(昭和20)7月12日:宇都宮大空襲により市街の大半が焼失。