駅周辺の様子

西口から伸びる大通り。宇都宮中心市街地は写真奥。手前沿道にはオフィスビルが並ぶ。
蛙の像と餃子像(JR宇都宮駅西口ペデストリアンデッキ下)2008年11月16日
ひびき像(JR宇都宮駅西口ペデストリアンデッキ上)と大通り方面の夜景
JR宇都宮駅東口広場にあった頃の餃子像2004年12月30日栃木県の県都宇都宮市中心市街地は、駅西側を流れる田川の対岸1-2km西方に広がり、栃木県庁や宇都宮市役所などの地方行政の諸主要機関や国の地方機関などが二荒山神社オリオン通り周辺の中心市街地とその周縁部に所在する。宇都宮駅西口はこの中心市街地に面し、ビジネス客や観光客が訪れる宇都宮の玄関口である。。

宇都宮駅は日本鉄道第二区線大宮-宇都宮間の開業に伴い開設されたが、当時より国内有数の人口を擁する地方都市であった宇都宮では、線路がマチナカを避けた田川対岸、宇都宮の東側に謂わば追いやられた格好で設置された。一方で路線敷設工事が急ピッチで進められたこともあり駅周辺整備が十分でないまま開業となったこともあって、当初は駅と現中心街を結ぶ大通りが開通しておらず、日本鉄道第二線区の開通式に参列し栃木県庁を訪問した宮内卿伊藤博文、鉄道局長井上勝、東京府知事渡辺洪基らは田川下流部にかかる押切橋を渡って宇都宮のマチナカに入り県庁を目指した。その後小袋町(現在の上河原付近)と簗瀬村の土地を買い上げて道路とし、田川には宮の橋を架けることによって現在の大通りが開通した。

現在、駅前広場の南側ロータリーには5面のプラットホームに計18のバス乗降場とタクシー降車場が、また北側ロータリーにはタクシー乗降場と一般車両乗降場、タクシープールが設けられている。一般車両については、広場内で待機する車両への市営駐車場(20分まで無料)利用と、南側ロータリーへの進入を回避し博労町交差点(旧奥州街道との交差点)方面への走行を誘導している。当駅西口と市街中心地の間は大通りで結ばれ、関東自動車、東野交通、JRバス関東の路線バスが頻回運行され(所要時間5分程度、運賃大人片道150円)、広い歩道も整備されている(所要時間は15分から20分程度)。大通り沿いにはビジネスビルが立ち並ぶが、一歩路地裏に入ると寺社が林立し、城下町宇都宮の面影を残している。なお現在西口は宇都宮市市街地再開発事業の一環として再開発中で、西口第四B地区の住宅棟とホテル棟の建設が進められており、うちホテル棟は2010年(平成22年)12月1日に開業し、残る住宅棟も平成22年度中には竣工する計画となっている。

一方、宇都宮駅東口は、宇都宮駅開業時より構内の車両留置線や貨物の積み下ろし設備等として機能してきた用地を、1971年(昭和46年)に宇都宮貨物ターミナル駅へと移転し、また車両基地宇都宮運転所の機能の一部を田端運転所に移し、余剰となった線路跡地に設置されたものである。東口再開発事業の開始とともに20線を超えた留置線も撤去され、2008年(平成20年)11月1日には宇都宮東警察署交番『宇都宮駅東口KOBAN』、バスのりば、タクシーのりば、一般車乗降場が新設された。2つのプラットホームに6つのバスのりば、タクシー乗降所、および一般車両乗降場が設けられている。また再開発にあわせて地名も変更され、市の公募により宮みらいと命名された。東口には高層商業施設が建設される予定であったが、2009年3月、再開発事業への参画を予定していた建設大手清水建設を中心とする企業グループ(グループ七七八)が折からの不況を理由に事業からの撤退を表明し、現時点で再開発事業は頓挫している。現在は2013年3月まで期限付きで暫定利用されている。

宇都宮駅周辺の主な施設は以下のとおり。
西口近接地区(川向町駅前通り)
駅ビルパセオ川向町
足利銀行(PaseoGlassbox内ATM、川向町
ララスクエア宇都宮駅前通り一丁目)
ヨドバシカメラマルチメディア宇都宮店
ホテルサンルート宇都宮(駅前通一丁目)
栃木銀行宇都宮駅前支店(駅前通り二丁目)
宇都宮ステーションホテル(駅前通り二丁目)
チサンホテル宇都宮(駅前通り三丁目)
リッチモンドホテル宇都宮駅前(駅前通り三丁目)
ホテル魚楽(駅前通り三丁目)
宇都宮川向郵便局(駅前通り三丁目)
栃木県道196号宇都宮停車場線
餃子像(ビーナスが餃子の皮に包まれた姿を表現している)は、東口から移設された。
田川-宮の橋
近接地区(今泉)
ホテル東横イン宇都宮駅前(今泉一丁目)
旧篠原家住宅(今泉一丁目)
興禅寺(釈迦如来像、今泉三丁目)
宇都宮今泉町郵便局(今泉四丁目)
北部地区
栃木県済生会宇都宮病院(竹林町)-バス
福田屋ショッピングプラザ宇都宮店(今泉町)-バス
ホテル東日本宇都宮(上大曽町)-バス
南部地区
善願寺(大豆三粒の金仏、南大通一丁目)
ホテルサンロイヤル宇都宮(南大通四丁目)
中心市街地地区
ホテルニューイタヤ(大通り二丁目)
宇都宮上河原郵便局(大通り二丁目)
宝蔵寺(およりの鐘、大通り四丁目)
清巌寺(鉄塔婆、大通り五丁目)
宇都宮二荒山神社(馬場通り一丁目)-バス
MEGAドン・キホーテラパーク宇都宮店(馬場通り二丁目)-バス
喜久屋書店宇都宮店
宇都宮パルコ(馬場通り三丁目)-バス
三菱UFJ信託銀行宇都宮支店(馬場通り三丁目)-バス
うつのみや表参道スクエア(馬場通り四丁目)-バス
りそな銀行宇都宮支店(馬場通り四丁目)-バス
オリオン通り(曲師町、江野町)-バス
釜川プロムナード(本町、江野町、曲師町、馬場通り、二荒町)-バス
宇都宮中央郵便局(日本郵便宇都宮支店・ゆうちょ銀行宇都宮店・かんぽ生命宇都宮支店併設)(中央本町)-バス
宇都宮千手町郵便局
栃木県庁(塙田一丁目)-バス
蒲生神社(塙田五丁目)-バス
八幡山八幡山公園・宇都宮タワー・八幡山交通公園)(塙田五丁目)-バス
宇都宮市役所(旭一丁目)-バス
宇都宮城址公園(本丸町)-バス
東武宇都宮線東武宇都宮駅(西方約1.5km、宮園町)-バス
東武宇都宮百貨店(宮園町)-バス
TSUTAYA東武宇都宮
ホテル・ザ・セントレ宇都宮(本町四丁目)-バス
宇都宮東武ホテルグランデ(本町五丁目)-バス
みずほ銀行宇都宮支店(本町五丁目)-バス
ホテル丸治(泉町)-バス
松が峰教会(松が峰一丁目)-バス
能開センター宇都宮校(池上町)-バス
能開センター宇都宮校中学受験専門館(泉町)-バス
中心市街地西部地区
延命院(地蔵菩薩像、泉町)-バス
桂林寺(釈迦三尊十六羅漢図、清住一丁目)-バス
一向寺(汗かき阿弥陀、西原二丁目)-バス
ヨハネ教会(桜二丁目)-バス
栃木県立美術館(桜四丁目)-バス
足利銀行本店(桜四丁目)-バス
日本基督教団宇都宮教会(桜四丁目)-バス
栃木県立博物館(睦町二丁目)-バス
宇都宮中央公園(睦町二丁目)-バス
国道119号-桜通り
東口近接地区(宮みらい、宿郷、東宿郷)
東口バス乗り場-駅東地区へ向かうバスも、一部を除き大半は西口を発着する。(宮みらい)
宇都宮中央病院(東宿郷二丁目)
宇都宮ポートホテル-イシン・ホテルズ・グループ(東宿郷二丁目)
ホテルエストイン(宿郷一丁目)
ホテルサンシャイン(東宿郷二丁目)
宇都宮宿郷郵便局(東宿郷二丁目)
カルナショッピングセンター(宿郷三丁目)
宇都宮東郵便局(日本郵便宇都宮東支店併設)(宿郷三丁目)
能開センター宇都宮駅東校(東宿郷一丁目)
北東地区(元今泉)
TSUTAYA宇都宮駅東口店(元今泉四丁目)
宇都宮市役所駅東出張所(元今泉五丁目)
駅東公園、宇都宮市体育館(元今泉五丁目)
栃木県立宇都宮白楊高等学校(元今泉八丁目)
栃木県立宇都宮産業展示館(マロニエプラザ)(元今泉六丁目)
南西地区(峰、陽東)

国道4号
宇都宮大学(峰町)-バス
ベルモール(陽東六丁目)-バス
なお、もともと(留置線の多数あった頃の)東口の出口階段下のタクシー乗り場前にあった餃子像は、2008年11月の東口新駅前広場オープンの前に西口バス乗場に移動された。移設作業中の同10月6日に事故により破損したが、同11月1日の餃子祭までに石材業者により修復された。
西口に市内各地への路線バスや高速バス(羽田空港・成田空港・京都・大阪・水戸・高崎・前橋方面)のターミナルがある。東口には駅東地区に向かう一部路線バスの停留所があるが、便数は限られている。

宇都宮駅を調べてみました

宇都宮駅は、栃木県宇都宮市川向町にある、東日本旅客鉄道JR東日本)・日本貨物鉄道JR貨物)の駅である。
利用可能な鉄道路線東日本旅客鉄道JR東日本
東北新幹線
山形新幹線
東北本線宇都宮線)-上野駅発着列車のほか、新宿駅山手貨物線)経由で東海道本線横須賀線方面に直通する湘南新宿ラインが当駅を始発・終着駅としている。ただし、一部の上野駅発着列車については、当駅を通り越して黒磯駅まで直通する。
烏山線-宝積寺駅が起点であるが一部を除き当駅を始発・終着駅としている。
日光線
駅構造駅舎南北に伸びる宇都宮線東北新幹線(高架)の線路西側に沿うように建設された地上3階建ての駅舎である。うち3階設備は新幹線ホームのみで、1-2階は主に南側が東日本旅客鉄道の駅施設、北側は宇都宮ステーション開発の駅ビル「パセオ」として利用されている。駅ビル「パセオ」と駅改札前「PASEOGlassbox」を中心に駅舎ビル全体でエキナカが展開されている。
駅施設改札は駅舎ビル2階にあり、改札外にはみどりの窓口(営業時間6:00-22:00)やびゅうプラザ(営業時間平日10:30-18:30、土曜日10:30-17:30)、駅事務室、近距離自動券売機、指定席券売機(営業時間初電-23:50)、えきねっと券売機(営業時間5:30-23:00)などのほか、インフォメーションセンター(観光案内所)などが置かれている。また改札内には待合室や新幹線乗り換え改札、精算所・精算機、コインロッカー、多目的トイレ等が設置されている。在来線ホームは駅舎ビルの東側地上、新幹線ホームは駅舎ビル3階に敷設されており、駅改札内コンコースと各ホーム間には階段のほかエスカレーター、エレベーターが設置されている。駅北東には宇都宮運転所が併設されている。
駅舎ビル2階には駅西口にペデストリアンデッキ、および駅東口への東西自由通路が取り付けられており、それぞれ階下はバスのりば、タクシーのりばとなっている。東西両口にも階段に加えエスカレーター、エレベーターが設置されており、バリアフリー化されている。
エキナカ構内には駅ビルパセオやPASEOGlassboxをはじめ、駅舎2階を中心にカフェBECK'SCOFFEESHOP(改札外および新幹線改札内)やコンビニNEWDAYS(在来線改札内および新幹線改札内)、駅売店KIOSK(駅舎1階西口交番脇、在来線改札内および新幹線改札内)、喜多そば(改札外および新幹線改札内)などのエキナカ各種小売店が入居している。
駅舎ビル北側1、2階に入る駅ビル「パセオ」にはカフェ(スターバックスコーヒー)やファーストフード(モスバーガー)、讃岐うどん専門店(丸亀製麺)などの飲食店のほか、スーパーマーケット(成城石井)、ドラッグストア(マツモトキヨシ)、菓子専門店(おかしのまちおか)など食料・生鮮食品(以上1階)、雑貨、服飾品の小売店や書店(八重洲ブックセンター、以上2階)などが入居している。また宇都宮駅改札に面する「PASEOGlassbox」には土産店やNEWDAYS、宇都宮餃子小町(宇味屋、悟空、餃子来風、宇都宮餃子館)、土産餃子店『来らっせ』、同青源、足利銀行ATM、駅弁松廼家などが入居しているほか、東西自由通路口にはロッテリアが出店している。
KOBAN駅舎ビル南側1階には宇都宮東警察署の『宇都宮駅KOBAN』が所在する。1903年明治35年)2月に『宇都宮警察署停車場巡査派出所』として設置されたのが起源で、1982年(昭和57年)6月の東北新幹線開業に際して現在の駅舎ビル1階に移設された[15]。
のりば新幹線ホームは、高架上に16両編成対応の相対式ホーム2面を有し、この間に通過線(本線)2線(2・3番線)をはさむ。
在来線ホームは単式、島式ホーム3面5線の地平ホーム(15両編成対応)となっているほか、5番線と7番線の間にの貨物列車等待避線(6番線)を有する。島式ホームの7・8番線および9・10番線ホーム上にはグリーン券券売機が設置されている。
すべての新幹線ホームおよび在来線ホームには、改札階である2階コンコース間を結ぶ階段のほかエスカレーターおよびエレベーターが設置され、バリアフリーに対応している。

新幹線
1■東北新幹線(下り)仙台・盛岡方面
山形新幹線(下り)山形・新庄方面
4■東北・山形新幹線(上り)大宮・東京方面
在来線[5]
5■日光線今市・日光方面
宇都宮線(下り)矢板・黒磯方面(一部のみ)
7-10■宇都宮線(下り)矢板・黒磯方面
宇都宮線
湘南新宿ライン(上り)
横須賀線直通)大宮・上野方面
新宿・横浜方面
日光線今市・日光方面(一部のみ)
9・10■烏山線大金・烏山方面
駅弁宇都宮駅は、日本国国鉄の駅構内販売機関自らの沿革において「地元業者『白木屋』がホームで発売したおにぎりが最初の駅弁である」「駅弁発祥の地」とされている。
かつては、富貴堂弁当部と松廼家の2社が営業していたが、富貴堂の撤退に伴い現在は松廼家1社のみの営業である。主な駅弁は下記の通り。
玄氣いなり
ふるさと宮まつり川一太鼓(土曜・休日のみ)
とりめし
下野山菜弁当
宮の釜めし
大人の休日
駅弁発祥地より汽車辨當
とりめし(上)
日光強めし
宮小町
日光杉並木
ふるさと幕の内
とちぎ霧降高原牛めし
平泉うにごはん
よくばりスタミナ弁当
以下は現在は入手できないもの
宇都宮餃子駅弁(富貴堂)-テレビ番組の企画で開発・数量限定
餃子駅弁・味味(富貴堂)-宇都宮餃子会から供給された餃子を使用
チキン茶めし弁当(富貴堂
茶めし弁当(富貴堂
イカラ弁当(富貴堂
ひれかつ弁当(富貴堂
利用状況2009年度の1日平均乗車人員は34,160人で、JRの駅としては北関東3県で最も多く、南関東1都3県を除くJR東日本管内の駅では仙台駅、新潟駅に次いで三番目に多い数字である。JR東日本全体では第120位となっている。なお旅客収入額はJR東日本で第13位(2009年度)で、東京電車特定区間以外のJR東日本の駅では仙台駅、新潟駅に次いで三番目に多い[6][18]。

宇都宮の商圏

2004年の調査結果によると、宇都宮市の商圏は宇都宮市およびその近隣自治体の他、大型商業施設が無い県北西部・県東部地区の比較的離れた自治体も、この域内に入っている。宇都宮市商圏の概容は以下のとおり。

▼大規模商業施設
第二次大戦後、市内の百貨店は地場資本の老舗「上野百貨店」と「山崎百貨店」で、2店を中心に繁華街が形成されていった。1960年代に入り地場の福田屋が百貨店を出店したほか電鉄系を中心とした東京の大手資本が次々に参入、馬場町から池上町付近には最大で6つの百貨店(上野、山崎、東武、福田屋、十字屋、西武)や丸井、緑屋など大型店が林立し、全国有数のオーバーストア地区となった。激戦に巻き込まれた山崎は1971年に東急百貨店と業務提携、生き残りを図ったが実を結ばず、3年後に閉店している(旧山崎跡に緑屋が曲師町から移転し入居)。バブル経済最盛期の1987年には十字屋が売り上げ不振を理由に百貨店から専門店に業態変更、2館体制だった丸井も売場拡大は困難として撤退した。

1991年には繁華街から1km程東方に位置するJR宇都宮駅前の再開発ビルにイトーヨーカドー系のロビンソンが開店している。

バブル経済が破綻した後、1994年5月1日の大型小売店舗法改正では大型店舗の規制要件が緩和され、福田屋は中心市街地(馬場通り二丁目)から市街地北部の準郊外(今泉町)に移転し、無料駐車場を備えた大規模ショッピングセンター「福田屋ショッピングプラザ宇都宮店」を開店し成功を収めた。 一方、中心市街地では1997年に二荒山神社前のバンバ相生地区が再開発され、ファッションビルの宇都宮パルコが開店した。パルコは初年度こそ低迷したが若年層を中心に客層を確保し一定の成功を収めている。しかし、2000年には上野が倒産し、2002年に西武、2003年にロビンソンが撤退。2001年、ams宇都宮(旧山崎、旧緑屋=江野町)跡に出店した109UTSUNOMIYAもわずか4年後の2005年に閉店し、大型店の淘汰が進む繁華街空洞化の象徴と言われた。

市ではこれら大型店の撤退を契機に、大規模店舗跡への出店要件を簡素化する構造改革特区「宇都宮にぎわい特区」を国に申請、2003年11月20日には特区適用第一号の[ドンキホーテ]を西武百貨店跡地に、また2005年4月8日には適用第二号のララスクエア宇都宮を旧ロビンソン跡地に誘致することに成功している。

現在、本庁管内(旧市内地域)にある大規模商業施設は、東武、パルコ、長崎屋、ララスクエア、FKD(福田屋ショッピングプラザ宇都宮店(今泉町)、トライアル、カルナショッピングセンター等に限られているが、近年開発が進んでいる駅東地区や、郊外を走る宇都宮環状道路沿線にも大規模商業施設が拡大しており、FKD(FKDショッピングモール宇都宮インターパーク店インターパーク)、ベルモール(陽東六丁目)、ジョイフル本田(住所は河内郡上三川町)、アピタ(江曽島本町)等が開店し、競争はむしろ激化している。中でも市南部の宇都宮上三川IC周辺に整備された商業流通団地「インターパーク宇都宮南」にはFKDショッピングモール宇都宮インターパーク店とジョイフル本田などが立地し、栃木県内屈指の大規模店舗集積地となっている。2007年7月31日には市街地再開発の一環として、旧上野本館跡を含む馬場通り中央地区に「うつのみや表参道スクエア」がオープンした。

▼餃子専門店
市内には餃子を扱う飲食店が専門店を含めて約二百軒あり、「餃子の街」として全国的に有名である。なお、2005年7月には、ジャスコ宇都宮店跡地(簗瀬町)に昭和30年代の内装を施したフードテーマパーク「宇都宮餃子共和国」がオープンしたが、市街地への餃子関連施設集積化などの意図もあり、2006年6月30日をもって撤退している。

▼家電量販店
宇都宮は大型家電量販店の発祥の地であり、現在もコジマが星が丘に本社を置いている。当初はヌマニウも家電量販店を展開していたが、バブル崩壊の後のコジマの全国展開および株式上場、またケーズデンキヤマダ電機の宇都宮出店などに押され撤退した。現在はJR宇都宮駅前にヨドバシカメラが、また市東部・南部地区にはベスト電器が出店し、競争はますます激化している。

市内の主な家電量販店舗は以下のとおり。なお、家電量販店ではないが、AV機器等を取り扱う写真用品店も併記する。

▼交通
路線バス交通を中心に市内の公共交通が整備されている。また、市内にあるJR宇都宮駅の利用者数は、栃木県最多で、JR東日本の管轄下では120位。

航空
市内に空港は無く、東京国際空港、成田空港、福島空港が最も近隣の空港となる。うち、羽田空港には関東自動車、東野交通および東京空港交通のリムジンバスが、また成田空港には関東自動車千葉交通のリムジンバスが、それぞれ直接乗り入れている。福島空港に直接乗り入れる宇都宮市内発着の公共交通機関は無く、JR東北新幹線東北本線郡山駅から福島交通のリムジンバス利用となる(福島空港と日光・鬼怒川温泉を結ぶ路線バスが市内山王団地経由で運行されたことがあるが、利用率が悪く試験運行のみで終了した)。

在来線利用の場合、昼間は宇都宮〜赤羽間で湘南新宿ライン快速を利用し、赤羽駅京浜東北線快速と乗り換えると便利である。
羽田空港・成田空港は航空会社によってターミナルビルが異なるので所要時間・発着順番が異なる。
福島空港間では1名5,000円で乗り合いタクシーが利用できる。
上記表運賃幅は、自由席利用時と繁忙期指定席利用時を示している。

行政

宇都宮市は栃木県の県庁所在地であり、市行政機関はもちろん、県庁施設や国の出先機関も存在する。市行政機関はエリア拡大・人口増加に伴い地域分化が進んでおり、市役所の一部窓口手続き業務は地域の市民センターで行うことが出来る。また各機能施設は中央集中のみならず、各地分散が適度に図られている。

▼農業
2004年の全国市町村別農業産出額において、宇都宮市の産出額県内順位は那須塩原市大田原市に次いで第3位、全国順位は第47位の出荷額である。県内自治体における耕地面積は那須塩原市に次いで広く、県内第2位であった(2004年)。宇都宮市の農業特産品は和なしや洋ランで、何れも全国市町村別産出額(2003年)において県内第1位、全国でも第7位であった。宇都宮は国内有数の米の産地でもあり、市町村別産出額(2004年)は大田原市に次いで県内第2位、全国でも第17位であった。野菜類ではトマトの産出額が多く、2003年の市町村別産出額で県内第1位、全国でも第19位であった。第1次産業に代わって第2次産業や第3次産業の人口が増大している中、市は農業政策事業の一環として宇都宮市農林公園にクラインガルテン市民農園)を設け、市民に有料ながら耕作環境を提供しているほか、同所で種々の農業体験・講習会などを定期的に開催し、市民が農業に触れる機会を提供している。

▼工業
2005年の宇都宮市の製造品出荷額は1兆5千万円を越え、栃木県の市町村で1位、全国の市町村で28位の額となっている。出荷額の内訳は、機械器具等が最も多く5千億円を越え、次いで飲料・食品等、化学工業品であり、典型的な内陸型製造産業を中心とする。

宇都宮における製造業は、主に以下の工業団地・企業によって営まれている。

宇都宮工業団地
市東部に位置する宇都宮工業団地は1962年から1975年にかけて分譲された、宇都宮で最も古い工業団地である。総面積は300万平米、工場用地だけでも240万平米を有し、現在も100を越す製造業者が入居している。入居業者の業種は機械器具製造、食品・飲料製造、印刷等である。近年では新鋭の清原工業団地への機能移行に伴い、年間製造品出荷額は約3千億円程度まで減少している。

クボタ、パナソニックカルビー日本信号、利根コカコーラ、マ・マーマカロニ、栃木明治牛乳、三菱製鋼東京スタイル廣済堂古河電気工業など。

市東部・鬼怒川の東岸に広がる清原工業団地は、1974年から1988年にかけて分譲された工業団地で、総面積390万平米、工場用地260万平米。入居事業者は電子機器、化学工業、食品・飲料・たばこ、機械器具・部品製造など。年間製造出荷額は宇都宮市総出荷額の2/3にあたる約1兆円程度。

キヤノンパナソニック長府製作所中外製薬久光製薬帝人デュポン、日本たばこ産業第一屋製パンカルビー、マルハ、住友ベークライト日本ペイントミツトヨ、東京製鐵、日本山村硝子、東京応化工業、日圧電子部品、清原住電、宮島醤油、カルソニックハリソン、エムイーエムシーなど。

市南東部に位置する瑞穂野工業団地は1977年から1983年にかけて分譲された工業団地で、総面積は30万平米、工場用地が20万平米と敷地面積は比較的小規模であるが、入居事業者数は80社を越える。入居事業者の主な業種は、自動車・家電製品等の周辺部品や梱包用材製造業者など。年間製造品出荷額は約160億円程度。トーホク、日本ポーチフレーバー、日邦工業、宇都宮ヤクルト販売など。

その他
富士重工業宇都宮製作所:当事業所は中島飛行機宇都宮工場として戦時中に整備され、戦闘機生産拠点として旧日本陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」(四式戦)の生産ラインが置かれた。戦後は鉄道車両生産拠点(2002年3月末までに東武8000系東武9000系東武10000系東武10030系東武30000系、キハ22形、キハ40系、キハ58系(28形,58形)、キハ81系はつかり」形、キハ82系キハ181系キハ183系キハ185系、キハ85系カシオペア用E26系客車、キハ2000系、キハ281系キハ283系キハ261系HOT7000系レールバス等、日本国内の鉄道車両計10,299両を製造)・航空機部品生産拠点として展開してきたが、2002年末に鉄道車両生産から撤退し、航空宇宙部門にシフトし、航空機生産・風力発電機器生産を行っている。
市北部(上戸祭、徳次郎)
ソニーのAV部門であるアイワの宇都宮工場(1960年開所、市内上戸祭)および宇都宮北工場(1975年開所、市内徳次郎町)があったが、現在はアイラインのテクノセンターとなっている。

▼商業
宇都宮市の2004年の年間商品販売額は2兆5千億円を越え、栃木県全体の年間商品販売額の45%程度を宇都宮市だけで売り上げている。また小売業の売り場面積は約66万平米で、栃木県全体の約1/4にあたる。このうちの約半数は本庁管内で占め、宇都宮市は栃木県下における重要な商業の中核地となっている。

中心市街地は市内を流れる田川の西岸の旧市内に形成されており、多種多様の商業施設が林立している。特に二荒山神社東武宇都宮駅の間にあるアーケード街「オリオン通り」は繁華街の中心となっている。田川東岸にあって市外からの玄関地として発展しているJR宇都宮駅周辺の商業施設は商種が限定的で比較的小規模である。オリオン通りの西側にはレコード店や古着屋などが立ち並ぶ「ユニオン通り」があり、若年層を惹き付けている。 百貨店も都心型が東武宇都宮駅にある東武宇都宮百貨店のみで、郊外型百貨店が福田屋ショッピングプラザ宇都宮店とFKDショッピングモール宇都宮インターパーク店の2店舗で、モータリゼーションに伴う小売業の郊外化が非常に進展している街である。

また、カクテル作りの腕を競う国内大会で優勝したバーテンダーが多く所在する事から、「カクテルの街」としても売り出している。ジャズサックス奏者・渡辺貞夫の出身地である事から、「ジャズの街」での宣伝も始まっている。

戦国時代

戦国時代、国司・宇都宮氏は擡頭する武士団を牽制して関東一帯の治安維持に寄与し、結果的に戦国大名と評される勢力を持っていた。将軍家足利氏の勢力が弱まり小田原の後北条氏が台頭して来ると、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏とともに後北条氏を牽制する一大勢力となった。中央政府から派遣された豊臣秀吉が小田原を攻めた際にはこれに応じ北条氏を破った。その後秀吉を小田原城から宇都宮城に迎え、秀吉は宇都宮の地で東北・関東の支配構造を決定した(宇都宮仕置)。宇都宮国綱は秀吉から羽柴姓を授かるなど宇都宮家と秀吉の関係は良好で、朝鮮攻めの際にも国綱は秀吉に追従した。しかし1597年、太閤検地の際に秀吉の姉婿であった浅野長政により石高詐称の嫌疑をかけられ改易された。背景には、旧来の勢力を一掃し、新たに功績を成した者に褒美として与える領地を確保する方針があったとされる。

宇都宮氏の後に入封されたのは改易に関わった浅野長政であったが、その後は蒲生氏や奥平氏などが入れ替わり支配した。

▼江戸時代
江戸時代になると徳川家康の廟所となった日光へ向かう日光街道と奥州白河へ向かう奥州街道が整備され、二つの街道の分岐点(追分)となる宇都宮宿の宿場町ともなった。

江戸時代初期の1622年には、徳川家康の腹心であった本多正純が宇都宮藩15万5千石で入城して城下町を含め中世宇都宮城を大改築し、周囲14km、高い土塁(一部石垣)と濠、土塁上には8つの櫓を備える近世平城(輪郭梯郭複合式平城)の縄張りとし、関東七大名城と呼ばれるほどの大城郭へと生まれ変わり、現在の市街地の基本構造を築いた。しかし正純はその後宇都宮城無断改修を咎められて(宇都宮城釣天井事件は架空の事件)改易され、その後は藩主が奥平氏松平氏や戸田氏、本多氏、阿部氏など目まぐるしく交代した。

この間も、大名の参勤交代や日光東照宮の造営などによる往来も多く、重要拠点として「小江戸」と呼ばれる程に盛えた。

▼幕末
江戸時代後期は戸田氏が入封し幕末まで宇都宮を治めた。新石町に生まれた蒲生君平は山陵修復を志して天皇陵を調査研究し、山陵志を執筆した。1856年には宇都宮藩藩主・戸田忠恕が山陵奉行に任ぜられ、歴代天皇の陵墓修復の任に当たった。君平はその後明治天皇より功績を讃えられ、その命により花房三丁目に勅旌碑が建てられ、また塙田の地に蒲生神社として祀られることとなった。

1868年の戊辰戦争の折には、藩主・忠恕は新政府方に就くが、大鳥圭介土方歳三ら率いる旧幕府軍桑名藩隊、新選組、伝習隊など)の侵攻に退散を余儀なくされた。宇都宮城に入った旧幕府軍と巻き返した新政府軍(長州藩薩摩藩大垣藩鳥取藩、土佐藩などの各隊)は、宇都宮市六道の辻宇都宮城二荒山神社付近で激戦を繰り広げ、物量に長じた新政府軍は新田町の延命院と桂林寺に砲台を並べ、旧幕府軍が陣取る宇都宮城や明神山(二荒山)、八幡山に砲弾を浴びせ、優勢となった新政府軍が宇都宮の地を旧幕府軍より奪還、旧幕府軍は明神山から日光方面に向け退却した。この折の戦火で、城下町を含む宇都宮城下の主たる建造物が焼失してしまった(宇都宮城の戦い)。この宇都宮戦争における戦没者を弔うために、市内のいたる寺院に慰霊碑が建立された。

明治維新から第二次大戦まで
1868年(慶応4)6月:古河にあった下総野鎮撫府が宇都宮に移動される。また、真岡天領が真岡県となるとともに、初代真岡県知事鍋島道太郎陣屋が一時宇都宮に置かれる。
1869年(明治2)6月:版籍奉還により宇都宮藩藩主戸田忠友が初代宇都宮藩知事に就任する。
1871年(明治4)8月29日(旧暦7月14日):廃藩置県により宇都宮藩が廃止され、宇都宮県が設置される。宇都宮県庁舎が宇都宮城内に置かれる。同年、日本陸軍東京鎮台第四分営第七番大隊が宇都宮城跡の宇都宮県庁舎に入営し、このため宇都宮県庁は城外に移転することとなり一時西原安養寺に置かれた。
1871年(明治4)12月25日(旧暦11月14日):府県再編により下野国北半部を管轄する宇都宮県が改めて設置されて、引き続き県庁が置かれる。県庁舎は梅が丘
1873年(明治6)6月:宇都宮県が廃止され、栃木県へ併合される。
1874年(明治7):日本陸軍が改組となり、宇都宮には東京鎮台歩兵第2連隊の連隊本部が設置され、従前の東京鎮台第四分営第七番大隊は同歩兵第2連隊第2大隊に改組となり、東京鎮台第1師団隷下となる。
1876年(明治9)6月:明治天皇が日光御行幸の際に宇都宮城で陸軍練兵を天覧する。現在の馬場通り2丁目にあった向明館が御在所となり宇都宮二荒山神社にも参詣。
1878年(明治11):郡区町村編制法が施行。
1880年(明治13)11月:陸軍東京鎮台第1師団の行軍演習が行われる。
1881年(明治14)7月:陸軍東京鎮台第1師団の大軍事演習が行われる。
1883年(明治16)10月:三島通庸が栃木県令となり、現在も宇都宮市中心市街地を東西に貫く大通りの開通工事を行う。
1884年(明治17)1月:県庁が栃木から宇都宮に移転。同年6月、東京鎮台歩兵第2連隊本部が佐倉に移動となる。
1885年(明治18)2月24日:内務省告示第6号にて、東京市日本橋)から函館港までの区間国道6号に制定される。市内経路は、雀宮から不動前、材木町、伝馬町、日野町、上河原、白沢街道を通って白沢に至る区間
1885年(明治18)4月:栃木第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)が県庁の宇都宮移転に伴い塙田地内に移転。
1885年(明治18)7月:日本鉄道大宮駅 - 宇都宮駅間が開通し、宇都宮駅で日本初の駅弁が販売される。
1889年(明治22)4月:町制施行。宇都宮町。町域は現在の本庁管内。同年末の居住人口は約3万7百人で、当時の関東地方の市町村内では第3位、全国では第28位であった[4]。
1890年(明治23)8月:日本鉄道宇都宮駅 - 今市駅間が開通。
1892年(明治25)10月:明治天皇が御行幸し市内向明館が御在所となる。天皇天覧の下、宇都宮平出原で第1回陸軍特別大演習が行われ、陸軍東京第1師団、同仙台第2師団、および近衛師団が参加。総勢3万人による大日本帝国初の大軍事演習となる。これ以降、御行幸(御幸)地の平出原は御幸が原と呼ばれるようになる。
1893年(明治26)7月:栃木第一中学校、河内郡姿川村(現在の宇都宮市滝の原)に新築移転。
1896年(明治29)4月1日:市制施行。宇都宮市。人口約3万5千2百人、戸数約7千戸。市域は現在の本庁管内。
1896年(明治29)10月17日:宇都宮旧城内広場において、旧制中学野球部同士の全国初の試合とされる旧制宇都宮中学(現・宇高)対旧制水戸中学(現・水戸一高)の試合が開催される。
1899年(明治32)6月:宇都宮電灯会社が、町内に電力供給を開始する。
1902年(明治35)8月:早稲田大学野球部が宇都宮にて第一回夏季練習を行う[5]。
1906年(明治39):八幡山に塩田園が開園。
1906年(明治39)12月:市内に電話が開通。
1908年(明治41)11月:陸軍第十四師団が移駐、師団本部が河内郡国本村戸祭に置かれる(現・国立栃木病院)。
1909年(明治42)10月:日本鉄道が国有化され、上野駅 - 青森駅間の路線名称を東北線、同じく宇都宮駅 - 日光駅間を日光線とする。
1911年(明治44)2月:市章制定。
1911年(明治44)3月4日:内務省告示第14号にて、東京市日本橋)から第十四師団(国本村)までの区間(現在の清住町通りと桜通り北側)が国道60号に制定される。
1912年(明治45)4月:市庁舎が旭町に落成。
1915年(大正4):今市浄水場、第6号接合井、戸祭配水場配水池が竣工。
1916年(大正5)3月:上水道の給水が開始される。
1920年(大正9)4月1日:内務省告示第28号にて、市内を通る国道6号国道4号、国道60号は国道29号に改号される。
1922年(大正11)10月:宇都宮高等農林学校(現宇都宮大学農学部)創設。
1927年(昭和2)4月1日:塩田園を市が買収、拡張整備した八幡山公園が開園。
1931年(昭和6)8月:東武鉄道宇都宮線開通。
1934年(昭和9)1月1日:河内郡姿川村鶴田の一部を編入
1936年(昭和11)3月:県庁舎が火災で焼失。
1938年(昭和13)10月:新県庁舎落成。
1939年(昭和14)4月1日:河内郡城山村大字駒生の一部を編入
1940年(昭和15)8月:第十四師団が満州に移駐、留守第十四師団を基幹とする第五十一師団が新設される。
1942年(昭和17)7月1日:河内郡平石村大字峰を編入
1944年(昭和19)1月:中島飛行機宇都宮製作所が操業開始。
1945年(昭和20)1月20日:留守第五十一師団司令部が独立し、宇都宮師管区司令部が開設される。
1945年(昭和20)6月:宇都宮師管区司令部が八幡山地下壕に移設される。
1945年(昭和20)7月12日:宇都宮大空襲により市街の大半が焼失。

歴史を調べてみようじゃないか

宇都宮は、蝦夷平定のためこの地に足を踏み入れた豊城入彦命が開祖といわれており、当時「池辺郷」といったこの地に命を神として祀った宇都宮二荒山神社門前町として、また二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家道兼流・宇都宮氏の直轄地として栄えた。

「宇都宮」という都市名と、嫡流「宇都宮氏」の名称は、延喜式神名帳にある下野国唯一の一宮名神大社である「二荒山神社」の別号「宇津宮大明神」に由来するというのが一般的だが、他にも「現の宮」、「遷しの宮」、「討つの宮」など諸説がある。江戸期の森幸安の「下野州河内郡宇都宮地図」によると、「宇」とは「宇宙」つまり「太廣」の意で、又「卯」と同じ「東」の意、「都」は「京」と同訓、「宮」は「宮殿」の意味であり、即ち宇都宮とは古くから関東の都である、とある。宇都宮二荒山神社はその武徳が尊ばれ、かつてこの地を訪れた田原藤太藤原秀郷武家源氏の祖である源頼義八幡太郎源義家父子、源頼朝徳川家康等の名将らも戦勝祈願し、土地・金品等が寄進されたと言われる。

律令制度が整備されてからは、道路としての東山道鎌倉時代には鎌倉街道の中道が通っていた。田原街道の田川橋梁は古来鎌倉橋とよばれてきた。

その後、1598年に宇都宮に入封された蒲生秀行が日野町や紺屋町を造成し、宇都宮氏の居館は近世宇都宮城へと継承された。さらに小山藩3万石から加増を受け15万5千石で宇都宮藩に入封された徳川家康の腹心である本多正純が城下町を含めた宇都宮城改築の大普請を行い、城下町・宇都宮の礎を築いた。また、江戸時代には日光街道奥州街道が通る宿場町・宇都宮宿としても繁栄した。

江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で入り、幕末まで続いた。宇都宮新石町出身の蒲生君平天皇家陵墓に関する調査研究結果を山陵志にまとめて幕府・朝廷より評価され、その功績で宇都宮藩は天皇陵墓修復工事を任され、当時の難局を回避した。

明治維新では宇都宮城周辺が戊辰戦争の戦場となり、また日露戦争後は軍備拡大により第14師団司令部が置かれ、太平洋戦争が終わるまで軍都と呼ばれ軍需産業も進出したが、1945年7月12日の宇都宮空襲では600名を超える市民が死亡し、主要な都市構造物が焼失した。

歴史的構造物は時代が生まれ変わるごとに破壊と再生の道を辿ってきたが、宇都宮二荒山神社を礎として、様々な文化を受け入れる温故知新の社会構造は、脈々と現代に受け継がれている。

平安時代から室町時代まで
宇都宮二荒山神社門前町であり、二荒山神社神職者として赴任した藤原道兼流で嫡流宇都宮氏の居館が置かれた。日本三代実録貞観11年2月28日の記述には「二荒神加正二位」とあり、宇都宮二荒山神社は地方社としては最高位の格式が与されていた。

また吾妻鏡の文治5年7月25日の記述には奥州征伐に向かった源頼朝が宇都宮に宿し宇都宮社に戦勝の願を立て奉幣したとあり、宇都宮二荒山神社が当時の武門から厚い崇敬を受けていたことが推察される。

宇都宮二荒山神社神職者の地位にあったとされる宇都宮氏は、この地に在る間も京都との交流を続け、この地に中央文化の息吹を吹き込み続け、鎌倉時代には宇都宮頼綱が宇都宮歌壇を築いて小倉百人一首の成り立ちに関わるなど、文化教養の養生において名跡を残した。また、源頼朝をして「東国一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱、元寇の際に討伐軍十万の総大将として九州へ赴いた宇都宮貞綱元弘の乱楠木正成と互角に渡り合った宇都宮公綱など、宇都宮氏は武門としても歴史にその名を残している。

宇都宮氏の名声の影には、始祖藤原宗円以来の宇都宮氏の郎党「紀清両党」の力があった。宇都宮貞綱が正和元年母の十三回忌の供養の折に鋳造し、菩提寺である東勝寺に奉納した鉄製塔婆は、東勝寺廃寺に伴い芳賀高継創建の清巌寺で保存され、現存する日本最古かつ最大の鉄製塔婆として国の重要文化財に指定されている。

宇都宮氏は京との結びつきを保ちつつ鎌倉時代には鎌倉幕府評定衆引付衆として、また室町時代には室町幕府足利尊氏の意向によって下野国守護職等を兼務し中央政府を支えるとともに、鎌倉府から関東八屋形に列せられ、鎌倉府、関東管領とともに関東の支配体制の一翼を担い、主に毛野川流域一体の治安維持に務めた。毛野川下流にあたる下総国常陸国を治めた常陸国司の小田氏も宇都宮氏の庶流である。

室町時代後期になると後北条氏が小田原から南関東に台頭し、その勢力は小山にまで迫り、宇都宮氏は常陸国守護大名の佐竹氏らとともにこれを牽制した。宇都宮尚綱は那須高資と戦って敗れ、壬生綱房が幼少の宇都宮広綱から宇都宮城を奪取したが、忠臣芳賀高定の働きにより広綱は宇都宮城を奪還した。宇都宮周辺の城郭の様相が当時の度重なる攻防の歴史を窺わせる。

宇都宮市を知るべし!

宇都宮市は、関東地方の北部、栃木県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。同県最大の人口で、1996年4月1日より、中核市に指定されている。

2007年3月31日、上河内町および河内町を合併し、人口約50万人となった。本市を中心市とする宇都宮都市圏の人口は約89万人。戦後、市の東部に大規模な内陸型工業団地が開発され、1984年には「テクノポリス」に関東地方で唯一地域指定されるなど工業都市として発展している。工業製品出荷額・年間商品販売額ともに県内第1位であり、同県で最も人口の多い第一の都市である。

当地は、古代毛野国に属し、律令制後には東山道鎌倉時代には鎌倉街道の中道が通り、河内郡郡衙や官道の駅が置かれた。平安時代後期には、現在の本市中心部にあたる旧下野国河内郡池辺郷に所在する二荒山神社門前町を形成した。また、当神社の神主で日光山別当職も兼ねた宇都宮氏が居館(後の宇都宮城)を置き、当地を支配するとともに、当神社の別号が宇都宮の語源となったとされる。江戸時代には宇都宮藩の城下町となって現在に至る都市基盤が整備され、また、日光道中奥州道中が分岐する地にある宿場町・馬場として、交通の要衝としても盛えた。

戊辰戦争第二次世界大戦などの騒乱を経て歴史的遺構は破壊されたが、現在では、宇都宮城、清巌寺鉄塔婆、一向寺汗かき阿弥陀、宝蔵寺およりの鐘、興禅寺木造釈迦如来坐像、旧篠原家住宅、その他大谷石建築や八幡山公園の大楠、旭町の大いちょう、祥雲寺のしだれ桜などの歴史遺産・自然遺産の保全活動にも手が尽くされ、2007年には宇都宮城址公園が日本の歴史公園100選に選定された。

本市西部で採掘される「大谷石」は、帝国ホテル建設に使われるなど、関東各地の建造物の建材として汎用されている。また、近年本市は「餃子の街」として有名となり、観光客数が増加している。他にもカクテルやジャズなどを活用した町興しも進めている。

市章は「亀の甲」と漢字の「宮」を模したデザインを用いている。「亀の甲」は宇都宮城の別称「亀ヶ丘城」に由来する。市内にはこのほか「亀の甲坂」や「亀ヶ甲」、「亀の井」といった亀の付く地名等が見られる。

現在、福田屋百貨店が2つの郊外型店福田屋ショッピングプラザ宇都宮店、FKDショッピングモール宇都宮インターパーク店をオープンするなどモータリゼーションによる郊外のスプロール化中心市街地衰退に直面しており、宇都宮二荒山神社を中心とする都心部の再開発が進められている。二荒山神社前の24階建て複合ビルならびに旧市街地を東西に縦断する新交通網LRTの建設論争がある。

2010年より『住めば愉快だ宇都宮』をブランドメッセージとする全国へのPR活動もスタートした。

▼地理
栃木県のほぼ中部関東平野の北端に位置し、首都東京から約105km北、標高は市中心部で約100m。南部は平坦な土地が広がり、東部を鬼怒川、中央部を鬼怒川支流の一つ田川、西部を思川支流の姿川が流れる。また、中心市街地には釜川、新川が流れる。

土地は鬼怒川が流れる市東南部地域が最も低く、北西部に向けて徐々に高くなっており、その先には古賀志山・多気山・鞍掛山など小高い山が連なっている。

宇都宮市街地は、この北西部山系から連なる戸祭山、八幡山、二荒山(明神山)のちょうど終端に位置する。背に北部山系を配し、平地開口部には田川等の水系を配す、典型的な「天然の要害」であり、この「地の利」を巧に取り込んだ宇都宮城の城下町から発展を続けている。

▼気候
オホーツク海高気圧の影響により北東の風が吹き、この張り出しが強いと気温があまり上がらず、また太平洋高気圧の間に前線を形成するため曇天で不安定な天気が続く。夏の日の午後は概ね毎日遠くで雷鳴が響く。また、気温が上昇した日は必ず雷を伴った夕立があるが、この夕立は猛暑にあっては一時の涼感をもたらし、雨の止んだ後に鳴く日暮らしや空にかかる虹とともに、宇都宮の夏の日の午後の風物詩となっている。この雷は上州名物として有名であるが、気象庁の気象統計によると宇都宮の雷日数は前橋のそれより多く、宇都宮が別名「雷都」とも呼ばれる所以となっている。 オホーツク海高気圧が発達しない限り天候は安定し晴天となる日も多い。